創業文化二年、江戸時代 —
船橋屋は多くのお客様とともに歴史を重ねてまいりました。
文化人の方々が残した日記や作品等から当時の様子を伺うことができます。
船橋屋ゆかりの文化人と描かれた作品等をご紹介します。
船橋屋は多くのお客様とともに歴史を重ねてまいりました。
文化人の方々が残した日記や作品等から当時の様子を伺うことができます。
船橋屋ゆかりの文化人と描かれた作品等をご紹介します。
本店喫茶室に飾られている看板は文豪・吉川英治にご揮毫いただいたものです。
吉川英治は執筆に疲れるとパンに黒蜜をぬって食べるのが好きで、様々な蜜を試したあげくに最も美味だと選んだのが船橋屋の黒蜜でした。これがご縁で、船橋屋の看板文字をご揮毫いただきました。
昭和28年の暮れに看板文字をお願いに参上した際「今まで看板はいうまでもなく、大きな文字を書いた事がありません。おそらくこれが初めてであり、最後でしょう。」と快諾して下さいました。そして、昭和29年正月2日に看板文字を書いて下さり、4,5日してから吉川先生の奥様より「できましたから、どうぞ」とご連絡がありました。
大きな文字は決して書かなかったこの作家が唯一残した大看板は、今も本店の喫茶室に掲げられております。
芥川龍之介が中学生の頃、体操の授業中に錦糸町から天神様まで駆けてきて、くず餅を食べて口のまわりに黄な粉をつけたまま学校に戻ったというエピソードが語り継がれています。
昭和2年5月6日~22日の期間、東京日日新聞(現・毎日新聞)で『本所両国』の連載をしています。「天神様」の箇所で船橋屋のくず餅を記載しています。
(『本所両国』「天神様」より)
僕等は「天神様」の外へ出た後「船橋屋」の葛餅くずもちを食ふ相談をした。が、本所に疎遠になつた僕には「船橋屋」も容易に見つからなかつた。(省略)やつと又船橋屋へ辿たどり着いた。船橋屋も家は新あらたになつたものの大体は昔に変つてゐない。僕等は縁台に腰をおろし、鴨居の上にかけ並べた日本アルプスの写真を見ながら、葛餅を一盆づつ食ふことにした。
西郷隆盛のお孫さんとご縁があり、お手紙を頂きました。
その中には、西郷隆盛がくず餅を好物としていたことが記載され、西郷隆盛も船橋屋のくず餅を食べていたであろうということが記されています。
お孫さんは西郷隆盛と愛加那のご長男である西郷菊次郎の娘です。
尾崎紅葉が明治36年の正月3日に巌谷小波ら硯友社の仲間と初卯詣に出かけています。両国広小路の汁粉屋に集合し、むかった先が亀戸天神。名物の繭玉飾りを買い、有名なくず餅を食べるところが描かれています。尾崎紅葉は胃の不調を自覚しながらもくず餅を半盆食べました。その時、巌谷小波は「葛餅の黄粉わりなき春衣哉」という俳句を残しています。
(明治36年1月25日『卯杖』第1号『初卯詣』より)
明治43年の作品『冷笑』「正月の或夜」の箇所に亀戸天神でくず餅を食べるところが描かれています。
(『冷笑』「正月の或夜」より)
狂言作者・中谷丁蔵が妻おきみさんと娘の蝶ちゃんと一緒に亀戸天神に行き、池の鯉に麩をあげながら名物の葛餅を食べています。くず餅の形は三角形に切った大きな片と表現し、蝶ちゃんもおきみさんも葛餅を好み、おきみさんはなるべく黄粉と砂糖のついている所を選び食べているところが描かれています。
志賀直哉自身の誕生日に亀井戸でくず餅を食べたことを日記に残しています。
(明治43年2月20日、志賀直哉の日記より)
自分の誕生日だ、いよいよマル廿七歳になった。余り話もなし、午后雪が降って来た、如何にも積りさうな様子なので喜むだが、直ぐ止む 立花亭の落語を聴きに行く、夕方此所を出て、歩いて両國へ行き本所へ渡って、亀井戸へ行く 葛餅がうまかった。
『妻への手紙』「晩年の辰雄」の箇所で堀辰雄が船橋屋のくず餅を楽しみにしていることが記載されています。
(昭和34年発刊『妻への手紙』より)
幼い日に食べたものを懐しみ、油屋のおかみさんに東京にわざわざ買ひ出しに行って貰ったりしたことも度々でした。この頃、名店街などで見かける亀戸の船橋屋のくず餅とか、神茂の半ぺんとか鮒佐の雀焼などの他に河岸から新しい蝦や蟹を大きな包にして背負って来るおかみさんの帰りを楽しみに待ったものでした。
平成7年4月3日発刊『大佛次郎 敗戦日記』に船橋屋のくず餅が記されています。
(昭和19年9月28日 『敗戦日記』より)
昼の中「正成」を書く。午後入浴の後朝日の招待で出かける。書店にて「子規の回想」耶蘇会士通信豊後篇二冊。朝日へと行くと江崎画伯もう来ている。自動車で亀戸天神前吉田屋へ行く。船橋やの葛餅が出る。
(昭和19年9月29日 『敗戦日記』より)
宿酔相変わらず。胃痛あり。天気はいい。三島から来た人に短冊書いて渡す。吉野木原、ゆい子ちゃん来て例のご如くおとなしく遊んでいる。葛餅を出す。
昭和38年発刊、高見順の『激流』に船橋屋のくず餅が登場しています。
(『激流』より)
「今日は二十五日だから、亀井戸の天神さまへ、みんなでお詣りに行かう。藤がちやうど見ごろだらう」と祖父は進一に言つた。せつかちな祖父が、仕度に手間どつてゐる祖母をせき立てて、賑やかにみんなで家を出ていくなかに、進一の父が加はつてゐないのは、いつものことで、「船橋やのくず餅を、店の者たちにおみやげに買つてきてやる」見送りの父に祖父は言つた。亀戸の藤は、祖父が言つたとおりちやうど見ごろの美しさだつた。
歌川国貞(初代)=歌川豊国(三代)は江戸に活躍した浮世絵師です。
▶歌川国貞は江戸本所の竪川の五ツ目に渡し船の株を持つ材木問屋の家に生まれました。15,16歳で歌川豊国の門下に入ります。五渡亭の号は狂歌師の大田南畝(蜀山人)からつけてもらったと言われています。
▶三代豊国は本所五ツ目→亀戸天神前→柳島と住居をかえています。亀戸天神前の住居は長女と結婚した二代国貞(四代豊国)や次女と結婚した国久、その子供の豊宣や国峰も住んでいます。
▶明治25年、三代豊国の孫である国峰から名だたる浮世絵師が住んでいた亀戸天神前の住居を船橋屋が譲り受けています。
その場所は今も船橋屋別館として使用しています。
香蝶楼豊国,一陽斎豊国『亀戸藤ノ真盛』,森屋治兵衛.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1307626
▶歌舞伎狂言の作者、四代目鶴屋南北も亀戸を拠点に活動していた時期があります。南北は文化13年~文政12年まで亀戸村の植木屋清五郎の隣に借地して住んでいました。文政2年に亀戸天神に石手水鉢を奉納した記録が残されています。
▶亀戸に住居を構えていた歌川国貞(三代豊国)、鶴屋南北を訪れるため、亀戸には多くの歌舞伎役者が訪れていました。
香蝶楼豊国,一陽斎豊国『亀戸藤の景』,古賀屋勝五郎.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1307646